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この志村けんが好き論

”ベタは、なくならない”

日本が誇るスーパーコメディアン、往く。

2020年3月29日、志村けん氏(以下敬称略)が新型コロナウイルスにより亡くなりました。享年70歳。 「全員集合」「ドリフの大爆笑」「だいじょぶだぁ」など、全年代の人々が知っているであろう偉大なコント師でした。 それを受けての4月6日放送の東京ポッド許可局、「この志村けんが好き論」の紹介と感想です。

すべての人を笑わせた男。志村けん

志村けんの急逝を受けての志村けん論。プチ鹿島とマキタスポーツは同年代でサンキュータツオだけが少し年下の3人。年代によって志村けん感が異なるのもおもしろいです。

ただ、どの年代でもある程度志村けんに関して語ることが出来ること自体が志村けんがずっと第一線でコントを作り続けていた証明でもあります。 プチ鹿島の小さなお子さんも志村けんのコントを見て大爆笑していたと語ります。小学生以上のお子さんから20代は、志村動物園での素に近い志村けん。 30代以上であれば、大爆笑とかバカ殿。40代以上は全員集合、と誰もが知ってる志村けん。

苦戦していたドリフデビュー

サンキュータツオは、すでにドリフターズのコントのエースとして大活躍していた志村けんの認識です。私も志村けんといえば、ドリフの大爆笑の絶対的なエースで子供ながらに志村けんとカトちゃんが出てればコントが当たり!と嬉しくなっていました。ただ、志村けんが入る前から全員集合を見ていた世代、プチ鹿島とマキタスポーツは、志村けんが荒井注が抜けてからのドリフコントで苦戦していた時代を知っていたと語ります。

リズム芸と音ネタ。志村けんのお笑いルーツ。

志村けんが加入する前のドリフターズはすでに国民的な人気で、そのボケ役の荒井注が脱退するということは、とんでもないピンチだったようです。 荒井注の代わりに付き人から抜擢された志村けん。しかし、まだ何者か分からない志村けんをファンはすぐには受け入れてくれませんでした。実際、志村けんのキャラクターも知られてないのでどういうふうにコントを見たらいいか分からなかった感じですかね?荒井注と比べられて苦戦していた志村けんを救ったのは、好きな音楽とアイデアでした。

新潟で放送された全員集合。そこで披露された『東村山音頭』。その曲で一気に志村けんはブレイクします。その後も、『ヒゲダンス』、後年の舞台では、津軽三味線を演奏しています。 志村けんは相当な音楽ファンで、ビートルズの武道館公演にも行っていて、前座で演奏していたドリフターズを見ていたことになります。ソウル、ファンク、ジャズなどに特に造詣が深く、 ヒゲダンスの後ろの音は、ソウルのテディ・ペンダーグラスの「Do Me」のリフです。音楽とリズム感。志村けんは、歌ネタ芸人でもありました。

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